AV落人辻丸の言霊〜殉教録〜

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zoom RSS 今日も見た・・・

<<   作成日時 : 2006/05/24 19:35   >>

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今日も見た。
「AVアイドルを舞台に上げてヤジとイジメで犯しまくる 3」(甲斐正明事務所)
自分の出ていないところばかり見ていた。僕はこの作品に、必要だったのかどうか・・。

この作品の評価を決定的に分けるのは、やはり主演女優に対する思い入れだろう。
それはまた全ての人間追求ドキュメントにおいて、言えることだろう。
彼女を愛せるか否か。
心から愛おしく想えるか、どうか。

この作品のクライマックスは、ラストの彼女の報告だ。家族との和解という、現実のハッピーエンドだ。
するとあの壮大なヤジ舞台も所詮はただのきっかけでしかなかった、ということになる。しかもあれだけ罵倒され陵辱され、侮蔑の限りを受けながらも彼女のAV女優という仕事に賭ける熱意は、何も変わらなかった、という答えになる。
それはいい。
事実、最後の”熱い想い”で、彼女ははっきりそう宣言していた。誰が何と言おうと、自分の人生に満足している、と。
その後の監督?とのハメ撮り。子供がじゃれてるような甘えん坊セックス。
そして結果は、見事な和解だ。圧倒的な、彼女の意志の勝利だ。
論客も男優も、家族さえも彼女を認めた。誰ひとり、彼女の人生を否定しきることは出来なかった。
それを歓ぶべきか・・・讃えるべきか・・・慈しむべきか・・・。
この作品はそこで分かれる。
AVであれ、ドキュメントであれ、見る者の感動はそこで選択される。
これでいいのか。
AVなんて負けるべきなのか。AV女優が勝って、いいのか。
だが、いずれにせよ、そこにエロはない。AVであるとかないとか言う以前に、この作品で、エロは醸し出されていない。
彼女のレイプシーンは商品としては落第だから。監督自らがストップをかけてしまっているくらいだから。
ハメ撮りに癒しはあった。そのためだけの慰謝を込めた追加シーンに見えてしまった。
他のイメージオナニー?抜き差し本番?
これらもAVという存在の一般性を示す例証でしかない。
彼女のエロはどういうものなのか。彼女が己の人生を託したエロの表現は、一体どこで披露されたのか。
この作品の核は、どこにあるのか?
それによって、この作品はAVにもドキュメントにも成り得る。
同時に、どちらにも成り得ないまま、沈黙の果てに霧消する。

彼女は救われた。どんなにAV内で虐待されようと、信念を曲げず、最も、いや唯一理解してほしいと祈願していた家族から、暖かい許しを得ることが出来た。
公私を分けぬ、あらゆる虐待を乗り越えてみせたのだ。
その方法がAV・・・ウィンナー10個をケツに入れたリ、野外露出したり、中出ししたり、よってたかって強姦されたり・・・。
しかし、たとえクスリや犯罪であろうとも、そうすることによってしか生を保てない人間もいる。つかの間の安堵を得られない、寂しい魂もある。
AV女優は、AV女優でしか救われなかった女の子達なのだ。
それは事の是非を問うものではなく、彼女達にとっての動かぬ現実なのだ。
中身を審判しても何の意味もない。彼女達はそもそも具体的なプレイ一つ一つに精神を預けているのではない。
AV女優は、AV女優であり続けることで、自分を支えているのだ。だから、どんな血も涙もない悪口暴行を受けようと、その信念が揺らぐことなどあり得ないのだ。
舞台上のレイプシーンが、つまらなかったのも当然。
ハメ撮りが、どこかじれったいままに、くすぶったエッチに終始してしまったのも自然のこと。
AVによって、AV女優を破裂させようとするなんて、土台無理なことかもしれない。
AV男優、AV監督、そしてAV現場である以上、AV女優の本質に迫るなんてことは、叶わぬ夢かもしれない。
なぜなら彼女達はAV内に生きる限り、ただのAV女優だから。AV女優をして生活している普通の女の子では、決してないから。
この作品で、彼女のプライベートは一切撮られていない。
家族との和解という最大のテーマ、カタルシスに到る過程が、まるで映像化されていない。
舞台を終えた感想、二か月後にそれを再見した感慨すら一言も吐露されていないのだ。語らなかったのか、引き出せなかったのか。
そしてエンドロール後に大団円だ。それもあまりにAV女優らしく?全裸での最終報告だ。
あの時の彼女は、本名の彼女ではない。AV女優として仕事している女の子でしかない。
だからあの他人事のような喋り方?本当に感動の再会が行われたのか、と疑いたくなる、静々しい告白。

この作品に執拗な違和感めいたものを感じるのは、AV女優の本気、というものへの根本的な疑念だ。
彼女達はどこまでAVに人生を賭けているのか。
彼女の涙は、どのくらい本気なのか。
彼女はレイプに対して、本当に抵抗していたのか。
彼女は、どのくらい虐待されてきたのか。
彼女は真実、家族と和解出来たのか。
おばあちゃんは、本当に心から、彼女の生き方を受け止めてくれたのか。
お金のためがどうだとか、綺麗事を追求しているのではない。
AV女優が、AVの中で本気になれるのか?
ただの女の子が、AVによって本当に変わるのか?
一般の人が、AVやAV女優に対して、そんなに都合良く認識を改めてくれるだろうか。自分の家族ならばこそ、最後まで許してあげることが出来るものだろうか?

彼女だけではない。我々の本気って、何だ?
プロ意識だの、人生賭けるだの、誰でも口にする。
現実はどうだ?我々の日常はどんな有り様だ?
仮面を被る、モザイクをかける、散々罵倒しておいてガンバってねと言ってサッサと帰ってゆく、二度と男優はやりませんからと陳情する、AVに監督なんていらないとホザく、地獄を味あわせた仕掛人とその夜にセックスする、優しくされてうれしいと甘える、監督は自らの顔にボカシを入れる・・・。
本気になるのは、いつだ?
我々に本気で生きる瞬間など、一体あるのか?

AV女優を非難する資格なんて誰にもない。
彼女をヤジってイジメて犯す権利なんて、誰も持っていない。
この作品を安易なメッセージだと、やり過ごす自由なんて、誰ひとり与えられていない。
だが、AVが一人の人間を変える、という結論に、本気でノることはやはり難しいのだ。
AVは、生きている。
彼女も生きている。
彼女がこれから延々と辿る現実も、しぶとく生き続けてゆく。
全てのものは、変わるのだ。本物に留まってくれるものなど、一つとしてないのだ。
AVも変わる。彼女をこれから徹底して傷付けるかもしれない。彼女の家族に容赦無く迷惑をかけるかもしれない。彼女の家族がその時点で、AVを彼女を、絶対許してやれなくなるかもしれない。
本気なんて幾らでも変わるのだ。それが人間の弱さであり、姑息さであり、愛おしさでもあるのだ。
実際、もし家族が、断固として和解も説得も拒否した、という結末になっていたとしたら、このAVはどうなっていただろう。
彼女はそれでもAV女優を続けているだろうか。
それを讃えることが、AV女優の勝利だろうか。本気だろうか。
僕はもう、分らなくなってきた。
彼女の笑顔は最後まで淋しい。
彼女は今、幸せだろうか。
彼女はいつまでAV女優を続けなければならないのだろうか・・・。

結局は思い入れなのだ。
僕だって自分の監督作について去年の八月一日、思い入れ溢れる自己陶酔の戯れ言を書きまくった。
あの女優の本気を僕は信じたから。あのAVの中で、彼女の何かが新しくなった、と心底想ったから。
要するにこの作品に関しては、そこまでの思い入れを彼女に持てなかった、という巡り合わせが悪かっただけなのだ。
彼女には何の罪も責任もない。監督にもない。
僕はあの現場にいるべきだったのだろうか。
僕にこんな不遜極まる文章をダラダラ書き綴る資格が、本当のところ、あるだろうか。
僕なくしても、この広い世の中、一向構わず、進行してゆく・・・・。


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