AV落人辻丸の言霊〜殉教録〜

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zoom RSS 追想「子宮に捧げる愛の詩」その七"対面"

<<   作成日時 : 2013/07/21 07:30   >>

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"見られる者よりも、見てしまった者の方にドラマがあるのだ"山崎努

 


"この映画は、僕の目にはあまりにも、孤高に見える"
去年のクリスマスイヴ。
僕はこのブログにこんなことを書いた。
上映四日めに再見した映画「子宮に捧げる愛の詩 女体拷問研究所の真実」。
僕は初めて対面出来た気がしている。
自分が関わった映画に。
初見では歯痒いままで終わってしまった自分の作品に。
映画はやはりスクリーンで見なくてはならない。
当たり前の大原則に、DVD頼みで怠惰に溺れている己の邪道ぶりを恥じ入るばかりでしかない真実を思い知らされて・・・。
あらゆる映画は、それだけで孤高足りえる。
いかにDVDやテレビで薄利多売されようと、銀幕上の輝きに抗し得る概念はどこにも存在しない。
僕は自分の映画を映画館で見れて本当に良かった。
この年で己が姿をスクリーンで確認出来たことは、まさに僥倖だった。
感謝している。
一本の未だ名も無きフィルムに・・・僕なんかがいる。

この映画に紛れもない生命線を与えているのは、まずひとえに主役のテツオ君の好演による。
彼の繊細さと透明感あふれる存在が無かったら、この映画は何のドラマ性も有しないまま、空疎に終始していただろう。
彼は常に戸惑っている。
テレビから流れるニュースにも、定食屋のオヤジの一言にも、飲み友達のからかいにも、AV女優達の無邪気な?発言にも・・・。
「その犯罪組織は、女体拷問研究所と名乗っています」
「人間のやってることだろ?」
「女を愛せないテツオ君だろ?」
「快楽拷問って、イキまくるんでしょ?」
「女はね、幸せになりたいだけなんだよ」
そして背後を気にしている。
何かに後ろめたいような、怖気と不安を引きずっている。
それは僕もそうだ。
初見では遠いセリフのみでしか届かなかった数々の言葉に、今はいちいち感応している自分。
まさかAVのタイトルが映画館で聞こえるとは・・・"人間のやってること"、この作品の、そしてAVそのものの究極テーマとも言うべきフレーズを、かつての"青春ドラマの巨匠"のひとりたるベテランが見事に口にしていること・・・論文調のセリフがごくごくチャラ男風に発せられ、AV女優ではない女優がイキ、とはしゃぎ、女はね、と語り・・・。
こんな風に感じること自体が、僕の欺瞞に満ちた裏返しの偏見であるのかもしれない。
けれど僕は戸惑いつつ、感心した。
後ろめたさと怖気に包まれながら、一般と呼ばれる世界の男女優陣が語り上げてくれるAV世界?に耽溺した。
ただの演技。
いつものセリフまわし。
それでもいい。
AVが映画にされている。
AVが、役者によってドラマに構築されている。
続く絡みのシーンはAV以上に、18禁映画としてもソフト過ぎると言われるかもしれない。
けれど快楽よりも、やはり戸惑いと怖気を纏ったぎこちないベッドシーンは、それゆえにこそ僕には生々しかった。
セックスを演じている女優。
それも不満足な、どこか投げやりな、そして苛立たしい性交を、何とか完遂させようとしている自虐混じりの行為。
AVではありえないセックスだ。
商品でも見世物でもない、ドラマならではの悲痛な"本番"だ。
中央前列の好位置から注視していた僕は初見ではまったく覚えなかった搾り出すが如き呼吸に圧倒されていた。
それは傍観からでは、他人からでは全然理解され得ない、哀切の交尾だった。

この後ヒロイン鈴が登場し、AV的なシーンがいささか続く。
だが、ここでも僕の関心は、電マやキスや愛のささやき、といったAV調のアイテム?よりも、ふたりの等間隔のみである。
何もしていない、二人。
見詰め合ってもいない、ふたり。
特に鈴はベッド、テツオは眺めているだけの、二人きりの静謐図。
その雰囲気が僕には新鮮だった。
AV的でない、愛の充足に満ちていた。
僕は映画を見ている。
本来は一般映画として製作されたAV原作のドラマを見ている。
AVではない愛。
見られることも見せることも触れ合うことすらない、愛。
AVに沈黙はタブーだ。
しかし映画は、こうして愛を語れるんだ。

ここから映画は急転する。
走るテツオ。
そして埠頭での検証シーン。
AVが出た。
いや、AV女優が出た。
当然、非リアルの超ミニスカ。
彼女でなくてはならない。
AVからそのまま抜け出た女捜査官の登場でなくてはならない。
彼女にも映画演技への不安は人一倍あったろう。
僕は彼女にこう言ってやるべきだった。
演技力を問うだけなら、僕や君がキャスティングされるはずがない。
過去の例からいけば当然、プロの俳優がそれぞれの役についていただろう。
けれどこれはAV原作によるAV監督が撮った映画だ。
AVそのものとして世間にアピールされなければ意味も本質もないのだ。
求められたものは、君や僕の存在。
良くも悪くも、AVの中で生きる男女優としての自然力。
だから、いつもどおりでいい。
AVのままでいい。
AV女優が、AV男優が、そのまま映画に現れてこそ、この作品には相応しい。
言い聞かせているようなものだ。
それを許してくれている映画だったのだ。
続くテツオと鈴のつかの間の別れ。
僕は切なかった。
愛を辿ろうとしているこの映画旋律に、僕は素直にひたれた。

ナイトシーン。
実際に夜撮らなければ決して映らない、その時だけの世界。
こんな単純なことにもどこか興奮している僕は、まだ映画を知らなさ過ぎた。
すでに何百本と映画を見てきたはずの自分がつくづくニセモノに思えて仕方なかった。
その自傷は、いよいよ研究所シーンに至って頂点に達する。
間近で見る自分。
銀幕を漂う自分。いや、汚す自分。
やはり声質はいつものAVよりかなり劣っている。
恥ずかしいほど疲弊している。
そして己がザマも。
我が身の醜悪さも。
何をしゃべっていたのか、僕は知らない。
自分は存在しただけ。生息していただけ。
そして、アブクの如く消え去って・・・。
再び現れるAV女優。
そこでの温和感、安堵感。
そのままクライマックスとも言える全裸のファックシーンへとつながる。
長まわしと、朝陽を思わせる夢幻色に包まれた昇天の時空間。
AVとは違う、AVから送られてきた、紡ぎ出されてきた、映画での本番絡み。
監督はこのシーンのためにAVを撮ってきたのか。
愛とは何か?
それがこのシーンに集約され、昇華されようとしていたのか。
僕には分からない。
僕の出番は終わったから。
AV男女優は、もう誰ひとり登場しないのだから。

正直のところ、僕にはこの映画は分からない。
ラストは特に読解出来ない。
なぜ、AVが置いてあったのか?
どうしてテツオ君は微笑んだのか?
鈴さんは結局、どうなったのか?
女体拷問研究所なるものは本当に存在したのか?
全ては、テツオ君の幻想でしかなかったのか?
イクって何?
愛するって何?
しかし、もう構わない。
それはキャストの僕ではなく、観客が決めることだ。
AV男優ではなく、女優が、オンナが感じることだ。
この映画を。
ささやかに生きるフィルムを。
二度見て良かった。
僕はやっと救われた。
ほんの少しだが・・・気まぐれかもしれないが・・・。
またいつかスクリーンで見ることが叶うだろうか。
そうするしかないだけの、己の卑小さを僕はこれからも生きていくのだろうか。
イクって、分からない。
愛するって、分からない。
でもこの映画は真実だ。
僕もそこに、つかの間、生きることを許されたのだ。



"ぼくは映画が生まれたのは
小説の罪だと思う。

未来の映画は、すべてブルー・フィルムに
なるであろう。そして公認された
ブルー・フィルムの最上の媒体は、
ヴィデオ・カセットに
なるであろう。

肉体をはいじゃった肉体が
映画の一番の仮面なのかもしれない。"
三島由紀夫








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