AV落人辻丸の言霊〜殉教録〜

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zoom RSS 古典の暴き・・映画メモ「お遊さま」

<<   作成日時 : 2006/04/11 19:53   >>

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51年 監督溝口健二 原作谷崎潤一郎 脚色依田義賢 撮影宮川一夫 美術水谷浩
音楽早坂文雄 出演田中絹代 掘雄二 乙羽信子 柳永二郎

古臭い映画だ。どうにも時代遅れな、古典として床の間に飾っておくしかないような大芝居世界だ。
何しろメインの三角関係が現在の感覚では理解不能。
見合いした相手の姉の方を好きになるボンボン。それを察した妹は何と仲良しの姉のために二人の架け橋?になろうとそのまま結婚してしまう。姉は一子を持つ未亡人。でも二人は深く愛し合っている。形だけの夫婦に徹してあげれば・・だが周囲の目は三人の仲を訝り、妹の過度の心遣いに気付いた姉は、子供の病死をきっかけに再婚して二人の前から消える。
ボンボンの商店は没落。妹は赤子をもうけるも産後の肥立ちが悪く(出た!十八番の死に方)「あなたの心を私に向けたかった」とか今さら言いながら息を引き取る。
ボンボンは姉に幼子を託し、いずこかへ去っていく・・・。

いくら仲がいいからってそのために自分を本気で愛してくれてない男と一緒になるか?しかも姉に悪いから、と夫婦の営みは持たずに何年も暮らせるものか?
それを受け入れるボンボンもヤることヤらずに平気なはずがなかろうに・・・。
またそんな妹の苦渋の選択に、なーんも気が付かない呑気ネーさん。
やっと修まるとこに修まったかと思ったら、天罰とばかりの淪落、病死・・・それでもラストは新しい生命が繋がれていく人生の機微・・・。

とにかく古い感覚だ。そしてじれったいばかりのヒロイズム満載ドラマだ。
姉のため、あなたのため、誰かのため、いえいえ、ともかく人のため・・・。
そのおぞましいばかりの犠牲的精神・・・と言えば聞こえはいいが、要するに大きなお世話、余計なおせっかい。
そのくせいざとなると、本当はこうしたかった、ああすればよかったって・・・だったら素直に最初からそうすりゃあいいものを・・・。
結局偽善に満ちた一人一人の行為が事態をどんどん袋小路に追いやって、身も蓋もなくなったところで天の裁きか自業自得か。
これを美学と呼ぶには、いささか世迷い言が過ぎるかも。あまりにクラシカルなメロドラマ哲学に呆れ返るか、ゲンナリするか・・・。

しかしこの堂々たる風格は何だ。
見事なほどに堅固で流麗な映像劇場はどういうことだ。
邦画全盛期ならではの豪華で緻密なセット。有名な長回しにも一糸乱れぬ充実の芝居構成。一服の水彩画を思わせる陰影に富んだ風景カット。
まさに古典だ。生真面目なまでの厳粛な芸術仕様だ。
谷崎文学特有の有閑、優雅、豊穣、贅沢。
所詮はブルジョア悲劇だ。いい気なもんだ、のお道楽色恋遊戯だ。
それがここまで人間の宿命に迫らんほどの格調高いムードにまで昇華しているとは。
映画は魔物だ。
そこにこそモノに悩み、モノを生み出す、人間の偉大さが醸し出されているのだ。

登場人物達は一人残らず現代から見れば阿呆らしいようなことに、死ぬほど悩み、実際に命を削る。
世間の目、家の中での己の立場、結婚というしきたり、社会の掟・・・だがそれらは抗弁でしかなく、結局は自分の欲望、自己犠牲という名の満足、相手への妄執に哀れなほど捕われている。そしてどこまで苦悩し尽くしたところで、何不自由のない生活、安定と驕慢の上での一人相撲を展開しているだけなのだ。
これを人間らしさと見るべきか。
繁栄と爛熟が生み出した虚栄的な錯乱と憐れむべきか。
人それぞれだろう。
貧乏な生活者からすれば、ただのお気楽なママゴト。
他方、夢に憧れる庶民からすれば天上のアダルト童話。
古典とは本来そういうものだ。
普遍性と馬鹿馬鹿しさが紙一重の、それだけ奥の深い、シンプルを極めた迷宮の彫刻品であるのだ。

第一、我々は彼等を心底笑い飛ばすことが出来るだろうか。
誰に何と言われようと本気で好きな人と当たり前に結婚する・・・・現実はどうだ?
金があっての結婚、競争に勝ち続けての家族ライフ。
あなたのため、が金のため、に変わっただけ。
犠牲に殉じることが、勝ち組という名のヒロイズムに醜く変貌してみせただけ。
犠牲なんて互いを不幸にしてしまうだけの自己充足でしかないが、それでも突き進んでしまうのが愛の愚かさ、人間の純心さ。
たとえ金持ちの浮き世離れした我がままプレイと揶揄されようと、そこには不器用なまでの自己陶酔がある。己の人生への全身的な奉仕が見える。
現代の犠牲はその対象が相手でも自分でもない。金だ。モノだ。それらが奉っているだけの不確かな幻想だ。
金は自己満足を生むだろう。勝利の美酒は人間を果てしなく酔わせるだろう。
けれどそこに命はあるか?
生命に連なる人間の丸裸な訴えが、存在しえるか?

情念は人を変える。
馬鹿正直さが、人間を動かす。
単純な心のエネルギーこそが、歴史を乱す。
金は時代を動かさない。モノは古典に到達しない。
金は元からあるものだから。究極の俗物であり、そこには何の永遠もありはしないから。

キャバ嬢を兼ねるAV女優がこんなことを言っていた。
ああいうとこって、下らないこと、ばっかりで・・・。
確かに下らないだろう。歓楽の最先端にありながら、旧社会と何ら変わらない虚飾に満ちた俗界だろう。
だがそれに背を向ける彼女は、世間から言わせればカラダを売ってるAV女優。
お水より最低の、無知に堕ちた拝金オンナ。
どっちもどっちだ。
情念もない。真情もない。心が突き動かされていない。
軽薄な欲望だけ。
短絡的なエゴ、実は時代に踊らされているだけの無惨な家畜・・・。

もはや我々は古典になどなれない。
新しくも古くもなれず、即物的に使い棄てられていくしかない。
笑われることさえないのだ。懐かしく再見される価値も与えられていないのだ。
金持ちばかりの空間でも芸術に達した時代がかつてあった。
現代は、金持ちも庶民も、すべての人間が心を失い、芸術にも見放された。
我々は何に勝っているつもりなのだろうか。
再び半世紀を経た時、我々は何の古典も残されていないまま、抹消されてしまっているのではないだろうか。






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内 容 ニックネーム/日時
辻丸先生というか、辻丸さんというか、お元気そうで何よりです。BODY PRESS愛読してたんですよ。つい最近ネット始めたアナログ人間です。今日偶然このページを見つけて喜喜としています。「もはや我々は古典になどなれない」 深い洞察ですよね。でも最近、私はチョットちがう事も考えるようになったんですよ。「寺山久美の写真集は古典になるかも」から始まって、「宮地奈々のVは古典になるかも」なんてね。。。ときどき、お邪魔しますが、体に気をつけて頑張ってください。では。
ロマンポルノスキィ
2006/04/12 00:03

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