AV落人辻丸の言霊〜殉教録〜

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zoom RSS 七十年前の”不良少女”・・映画メモ「浪華悲恋」

<<   作成日時 : 2006/02/03 19:29   >>

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36年 原案監督溝口健二 脚本依田義賢 出演山田五十鈴 梅村蓉子 原健作 竹川誠一 志賀迺家弁慶 進藤英太郎 志村喬

タイトルは「なにわエレジー」と読む。

七十年前の映画である。ほとんど誰も現存していない、映画である。
人は死んでも、映像は残る。姿も声も、命も残る。
AVも、そうだ。
誰が何と言おうと、AVだって、命を刻んでいるんだ。
イロモノとしか、エロとしか呼ばれない、人間のエレジーを・・・。

平凡な電話交換手が、父親の使い込みを埋め合わせるために、社長の妾になる。
それが本妻にバレて、ヤレヤレと思っていたら、兄が学資に困って卒業出来ないというので、好色な株屋の男を騙そうとするが失敗し、御用となる。
結婚を誓った相手からも裏切られ、家族からも見放され、不良少女と世間を騒がせた女は、一人いずこかへ、去っていく。

これだけの話だ。救いようのない、リアリスティックな悲劇だ。
けれど、この映画がタダモノではないのは、登場する人物達がことごとく、ふてぶてしいことだ。
一人として反省する人間は、出て来ない。
揃いも揃って、自分の都合しか考えない。
誰も彼もが、責任を相手になすり付けることにしか、頭がまわらない。
そしてとにかく、冷たい。利用価値が無くなったと見るや、血も涙もなく、人をバッサリ斬り捨てる。
主人公は父のため兄のため、恋人のために女を売り、法を犯した。
周りの者達は一人残らず、彼女のオンナとカネをアテにし、自分では何の犠牲も払わなかった。
結果、世間は彼女を罵った。
法律は彼女を罰した。
恋人は、卑怯にも逃げた。
家族は・・・彼女が身を挺して助けようとした血縁は・・・恥さらし、と彼女を追い出した。父はそもそも使い込んだくせに、酒ばかり呑んで何もしなかったくせに。兄は彼女の得たカネで卒業出来たくせに。妹は散々姉に甘え、たかっていたくせに。
もちろん彼女が逮捕されたことで、一家は世の中に顔向け出来なくなっただろう。彼女の諸行のために、すべての将来は滅茶苦茶だろう。
しかし、彼女も、そうされて、しおらしくなど、ならない。
哀れな悲劇のヒロインなどまっぴら御免とばかりに、誰よりもふてぶてしく、反省もせず、周囲にバッサリ見切りをつけて、たった一人、自分の人生に突き進んでいく。何のアテもないのに・・・。
この映画に救いはいらない。
誰もが、”良くない”生き方を、堂々と貫くのだから。

不良少女とは、懐かしい響きだ。
なぜか、昨今、使われなくなった言葉だ。
七十年も経ってしまったからか。
まさか。
確かに七十年前の日本は、不良少女を産んだ。貧乏と不平等な社会が、無数の彼女達をあぶり出した。
翻って現在、七十年も経ったこの日本。
何も変わってなど、いない。
誰も反省しない。自分の都合しか考えない。責任は誰かになすり付ける。冷たい。役に立たなくなった者は容赦なく廃棄する。犠牲になど馬鹿馬鹿しくて、ならない。そのくせあくまで何かに依存する。押し付ける。そのうち責め立てる。よってたかって、弱者だけを吊るし上げる。
七十年かけても、日本は貧乏なままだ。心が貧しいから、欲望だらけだから、自分を顧みることなどないから、人々はカネと欲に飢え続けているばかりだ。
しかも不平等などと言う、疑問や告発の訴えさえ忘れ、格差社会と言う当然と諦念に満ちたごまかしの意識に埋没している。
だから不良少女など、いなくなったのだ。
本来、不良、間違い、と正すべきことが、今の日本には無くなってしまっているのだ。
差があって当たり前。平等でなくて当たり前。
だから儲けるのが当たり前。そのためには手段を選ばないのも当たり前。やばくなったら責任転嫁するのも当たり前。
だって自分が一番可愛いもの。好きなことして生きたいもの。欲しいものは何でも手に入れたいもの。たった一度の人生、勝ちたいもの。世界が滅びようが、自分達さえ幸せなら、それでいいんだもの。
それだけが、良いことだもの。
つまりそのためなら、あらゆることが、どんな諸行が、良いことなんだもの。何をしようが、勝っちまえば、良いことになるんだもの。
七十年前の日本はまだ、敗者を不良少女と呼び、蔑視すると同時に、特定化し、問題にもした。それは改善と風刺と、理不尽な社会への憤りを込めた呼称でもあった。
それが聞かれなくなった時、我々は怒りも諧謔も、抵抗も、無くしてしまった。
残ったのは、諦めと、依存と、姑息と・・すさみきった人心・・・。
不良なんて・・・どこにもいないんだ。
皆が皆、普通のツラした、不良の群れなんだ。

最近の映画を見るがいい。
何て皆、ベタベタと仲のいいことか。
誰も誰も責めず、少しも問題を解決せず、何をやっても許されて、いいでしょう?わかるでしょう?とニヤニヤし合って、すべてを先送り・・・良くないことなんて今の世の中、実は何もないんだよ、楽しくいこう、とおぞましい限りのノー天気な触れ合いゴッコ。

家を追われた主人公が橋の上に立たずんでいると、顔見知りの医者が通りかかる。
彼女は自嘲して、こう言う。
「野良犬や、どないしたらいいか、わからへんねん」
「病気とちゃうか?」
「ふん、まあ病気やわな、不良少女ちゅう立派な病気や、なあ、お医者はん、こないになったおなごは、どないにして直さはんねん?」
「さあ、そりゃあ僕にもわからんわ」

野良犬もいなくなった。ビョーキという言い方も、御法度になってきた。
しかし我々は何も直していない。
七十年前から患っている病いを、今もなお放置して、野良犬のままでいる。
いや、疾病に犯された、飼い犬のまんまか・・・。

AV女優は不良少女だろうか。
我々も、立派な不良だろうか。
違うだろう。AVだって、しょせん飼い犬の世界でしかない。首輪につながれ、エサを待つだけの、去勢された生き物でしかない。
野良犬になる自由もない、明るくふてぶてしくうごめく日本国。
僕にもわからんわ。どないしたらいいか、わからへんねん。

それにしても、主演の山田五十鈴は七十年経っても今だ現役!
驚嘆に値する、女優の生命力だ。
AV女優を七十年間、現役で通せるような女性は果たして現れるだろうか。
現れてほしい。それでこそ、カラダを張ったオンナの軌跡。本物の不良少女。
見届ける前に僕は、くたばっちまうのだろうが・・・。

七十年後の日本。僕は見れない。見なくてもいい。
何も変わっていないか、すっかり消えて無くなっているか・・・どっちかなんだろうから。

シナリオ作成にあたって溝口健二は、盛んにこう言ったらしい。
「奸譎、だよ。奸譎な人間を描いてもらいたいんだよ。奸譎、みんな、えげつない奴ばっかりだよ、この世の中は」
奸譎(カンケツ)とは、ねじけた、いつわりの多い、という意味。
七十年前、この国はすでに、えげつなく、いつわりの多い、ねじけた人間、ばっかりだったんだ。
昔はよかった、なんて・・・もうやめようよ。

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